岩佐直治中佐追悼式

 

昨日12月8日は「大東亜戦争開戦記念日」でした。

1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍がハワイ・オアフ島真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃し、3年6か月に及ぶ大東亜戦争が勃発しました。

私は個人的には真珠湾攻撃がなかったならば対米戦争は避けられたと思っています。

時のルーズベルト米大統領の「ワナ」に嵌った結果だと考えています。

しかしながら国家の命運を賭け緒戦に散華した軍人がいたこと忘れてはれてはならないと前橋市内松竹院境内で行われた「岩佐直治中佐追悼式」に出席しました。

厳粛な式の最後に尺八の「海ゆかば」の奏楽を聞き、自然に涙が頬を伝わってきました。         合掌

群馬県隊友会長 小島 健二

紹介:岩佐中佐をご存知ですか

昭和16年12月8日、未明に北太平洋ハワイ沖に深行した帝国連合艦隊から、5隻の2人乗り特殊潜航艇が、オワフ島の真珠湾を目指し、まさに出撃せんとして、乗員の一人が母艦に向けて、次のような出発前の最後の連絡を発した。

「本艦に来艦してから約一ヶ月、呉出港してから三週間、一同のO勢なる協力と絶大なる努力に依りまして、只今真珠湾港外二〇の地点に達することが出来ました。此の上は天佑と神助に依りまして目的の貫徹を期し、私の最後の任務達成に向けて出発致します。

終りに臨み、伊22潜の武運長久を祈ります。さようなら」

以上は、あの真珠湾攻撃の朝、湾内深く潜入し、決死攻撃を敢行して、「九軍神」と称された9人の海軍軍人のうち、隊長であられた前橋出身、岩佐直治中佐の永訣の辞である。

続くハワイ時間12月7日午前8時35分、既に日本の航空部隊の奇襲により、猛爆撃を受けていた真珠湾内から、外海へ向かって必死の退避を始めていた米駆逐艦「モナハン」は未だ湾内を逃避中、近くの米艦船から「敵潜水艦発見」の通報を受けるや、近距離に潜水艦の潜望鏡を発見した。モナハンは全速力でこの潜水艦、即ち帝国海軍の特殊潜航艇1隻に体当たりして、更に爆雷攻撃を加え、これを撃沈せしめた。12月21日、米軍はこの特殊潜航艇を海底から引き上げたが、その際に艇内から見つかった軍服の袖章は帝国海軍の「大尉」のものであり、5隻出撃した特殊潜航艇の乗組員のうち、当時大尉は岩佐中佐お一人であった。艦内の乗員2名の遺体は近辺の共同墓地に葬られたという。

明くる昭和17年4月、戦時中の帝都東京で「九軍神合同海軍葬」が盛大に執り行われ、時の東条首相は、前橋まで訪れて岩佐中佐のご実家を弔問した。

星移り、時勢は移ろい、終戦後78年、先の大戦時に一人の青年がいて、当時二六歳の彼は、生還を期せない作戦に勇躍出発し、異国の海底に散華して、戦時中は軍神と讃えられながら、今日、この青年の名を、即ち、岩佐直治中佐の名を、中佐の故郷前橋においてさえ、知る者は希になってしまった。

シェイクスピア作「ハムレット」の終幕で、国の社複を守って息絶えたデンマーク王子ハムレットに向かって、忠臣ホレイショは、「気高い御も、今、砕け散った。眠れ、優しき王子よ!」と挽歌を捧げる。

同様に、吾々上州人も、戦後、掌を返したように冷酷に顧みなかった、岩佐中佐の御霊に向かって、今こそ追悼の誠を捧げようではありませんか。「終りに臨み、伊22潜の武運長久を祈ります。さようなら」と、万感の思いで旅立った中佐に、遅ればせに故里からお応えしようではありませんか。「安らかに眠れ、岩佐直治中佐よ、祖国に殉じた気高い御心よ!」と。(狩野嗣男)

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